非英語圏で娘をインターナショナルスクールに放り込んでみた♪

我が家には、娘が2人。

青天の霹靂だった夫の海外転勤で、非英語圏へ家族で帯同することになったのが、長女中2、次女小4になりたての春。

忘れもしない、東北大震災の直後。

2011年4月。

 

ちょっとだけ教育ママごん、そして25年来の英語コンプレックスを抱えていた私は、辞令が出た直後こそ躊躇していたものの、

 

これは娘たちをバイリンガルにするチャンスだ!!

 

と、本来の雑草魂が目覚め、鼻息荒く、お隣の大国に住まいを移しました。

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娘をインターナショナルスクールに放り込んでみた♪

海外赴任は、通常、夫が先に行って、住まいや居留許可証などの生活基盤が整った数か月後に家族が追いかける、というパターンが多いですね。

赴任先が先進国ならそれほど問題はないのかもしれませんが、我が家の赴任先は中国の上海市

中国かぁ・・

と思ったけど、子供たちがそこそこ大きかったことや、私が雑草タイプということもあり、家族で同時に日本を出ました。

 

当時、上海市は子供の教育水準が各分野で世界のトップ!というデータがあったんです。

今思えば、別に現地の学校で上海の子供たちと机を並べて勉強するわけじゃないから、全然関係なかったんですけどね^^;

でも、せわしない東京でのお受験生活に疲れていたこともあり、海外での教育に活路を見出したい、という気持ちがあったことは事実^^

 

4月、娘2人をまずは上海日本人学校に転入させ、9月から2人ともインターナショナルスクールに入れる計画をたてていました。

ところが、東京で私立の女子校に通っていた中2の長女は、共学で自由な日本人学校があまりに楽しすぎて、インター編入を断固拒否!

実際、英語ができない日本人の中学生が編入できるインターは非常に限られていて、勉強も難しくなっている中学校では、編入後も相当な努力が必要なことはあきらかでしたし、私もサポートしきれなかっただろうし、長女の性格を考えてもドロップアウトは目に見えていたので、拒否してくれてよかった・・と今は素直に思います^^

 

一方、小4という、外国語を習得し始めるにはベストな時期にいた次女は、9月から現地校の国際部に編入することができました。

今でこそバイリンガルJKですが、当時の次女の英語はゼロの状態でしたから、まずは、編入試験をパスするために、日本人留学生の家庭教師のお姉さんにお世話になっていました。

英語ゼロの状態で編入した現地校国際部の小学校が、1学年10人ほどのアットホームな学校だったのは、非常にラッキーでした。

アメリカのアリゾナ出身の先生Ms.Saraには、娘のように優しく、時に厳しく見守っていただき、ほぼマンツーマンでフォニックスから叩き込んでもらえました。大きなインターだったら、こんな環境、あり得ませんでしたね!

もちろん、家でも頑張っていて、スクールバスで帰宅後は、私がつきっきりで予習復習に付き合い、ごはんとお風呂以外はずっと2人で勉強している状態。

 

英語を日本語になおして、授業内容を日本語で理解させる。

 

例えば、動脈とか静脈、各器官の名称を日本語と英語で覚えさせ、それらの働きを日本語で説明し、理解させる・・

こんなことを、約1年、続けました。

「家庭教師に丸投げ」という技に出ていた家庭もありましたが、毎日起きている時間にそばにいる私が教えるのが一番効率的だし、私も、小学生の学習内容ならなんとかなったので、私たち2人、二人三脚、いえ、一心同体で、本当によく頑張った時期でした。

その間、英語や勉強との闘いだけではなく、クラスの中国系女子たちのイジメにあったり、いろんな洗礼を受けましたが、2年が経ったころには、次女は英語で不自由を感じなくなるくらいに上達し、インター校が参加する水泳の大会で優勝したり、学校でも本来のリーダーシップを発揮するほどに成長!

小6の夏休みには、Ms.Saraファミリーの帰省にくっついて、アメリカに1カ月以上行ったりもしていました。

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娘はバイリンガルに成長。母は、依然、英語しゃべれず(涙)

英語ゼロの状態から、汗と涙の努力を重ねた2年後、英語のステップアップのために、アジア系の生徒が多い現地校国際部から、ネイティブスピーカーの生徒が多いインターナショナルスクールに編入させました。

次女の恩人でもあるMs.Saraが中国の別の都市に引っ越してしまうことや、次女の能力をもっと伸ばせる学校に移るべき!というMs.Saraの助言もあり。

すべてが洗練されているBritish International Schoolへの編入試験をパスしました。

 

いつ止まってもおかしくない小さなおんぼろスクールバス → 大きくてデラックスなスクールバス

1学年1クラス → 1学年5クラス

日本の学年より半年遅れ → 日本の学年より半年進む

ごはんが灰色のスクールランチ → 美味しいカフェテリア

運動しやすいジャージ → ステキな制服

アジア人多し → 白人ネイティブスピーカー多し

中国語飛び交う → 超速英語

学費安い → 学費に目が飛び出る 

アメリカ英語 → イギリス英語

 

いろーーんな環境の変化はありましたが、中国語以外は、すべてステップアップ♪

この頃には、次女は英語にも自信を持ち始め、ブリティッシュスクールへの編入にもノリノリでした。

 

ところが!!

 

張り切って登校した初日、周りのめちゃくちゃ大人っぽいネイティブの子たちが話すベラベラ英語についていけず、涙涙で帰宅した次女・・

なんとか聞き取れてはいたようですが、自分がその輪に入っていけない・・

しかも、それまではほぼアジア人の環境だったのに、大人っぽい白人さんが多いブリティッシュスクール。

完全に気おくれしてしまっていた次女。

 

その後もクラスに馴染めず、しばらくゴタゴタあったようですが、1カ月後、クラスを替えてもらうことで、バラ色の学校生活になりました^^

この頃、いろいろあって日本と上海を行き来していた私は、環境が変わった次女をちっともサポートしてあげられず、かわいそうなことをしました。

担任の先生、学年主任の先生、隣のクラスの先生、カウンセリングの先生、いろんな大人を巻き込んで、すべて自分で体当たりで解決した次女。

すべてが解決してから、先生からメールで事後報告を受けた母。

次女、すげー^^;

 

こんな風に次女はメキメキと成長しました。

 

一方、母である私は?と言うと・・

 

英語は依然、カタコトのまま。

もともと、読み書きはできるんです。

なので、次女の予習復習を手伝ったり、メールでの先生とのやりとりも問題なし。

でもでも、しゃべれないもんだから、

電話は全力で避ける、実際に会うのもなるべく避ける(大汗)

ほんとに、もう、情けなかったですね(涙)

私と同世代で、同じ母親であるMs.Saraとも、もっともっと子育てのこととかプライベートなこととか、たくさんお話したかったし、何より、次女を我が子のようにかわいがって成長させてくれたことに、心からお礼を言いたかった。

こんなふうに、英語がしゃべれないばかりに、後悔すること、たくさんあります。

 

だから、私、今回ばかりは、塩原先生の「スマホ留学」で、絶対にしゃべれるようになります!

と、ここで宣言!

そして、いつか、次女と一緒に、Ms.Saraに会いに行こうっと♪

 

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[ 非英語圏で娘をインターナショナルスクールに放り込んでみた♪ ]英語学習いろいろ2017/05/12 11:02